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第24回 青山俳句工場向上句会選句結果 上巻

(長文注意!)

第24回のつっこみ句会では、インターネットの句会であることを改めて意識させられました。つまり、地縁のない句会であるということです。遊びの場なので目をつぶればいいようなことに対しても、やはり嘘を吐くことができません。東京はまた東京で、土着的な場なのでしょう。

向上句会とりまとめ:山口あずさ@東京土着民   


投句:宮崎斗士、千野帽子 、鉄火、白井健介、後藤一之、満月、凌、いしず、朝比古、萩山、明虫、またたぶ、けん太、足立隆、杉山薫、いちたろう、室田洋子、摩砂青、ぴえたくん、村山半信、(h)かずひろ、子壱、姫余、秀人、秋、古時計、夜来香、来夏、さにー、小島けいじ、しんく、田中亜美、山口あずさ
感想協力:ももこ


全体的な感想
凌:奇をてらう句と、体験的な非日常性の混在がこの青俳の面白さだろうなと納得した。
またたぶ:私は猫が好きだ。猫はまたたびが好きだ。しかるに私は猫の句が不得手だ。
満月:今回は「猫」という大甘になりがちなお題でありながらみんな工夫したなあと思う。もちろん猫かわいがり的な句もたくさんあったが、そうでない句はそれなりに難しいところをなんとかやってみようという意思が感じられてほっとした。
明虫:向上句会には新味を求める傾向と、古きを尋ねじっくりと足固めをする傾向と、いろいろな句ありますね。いずれの傾向であれ良い句は良い、と思います。新興俳句の旗手のような人がホトトギスの特定の人を称揚しているような例は結構あるみたいです。逆にいえば古きを尋ねじっくりと足固めをする句は難しい、ともいえると思います。自戒でもありますが、インターネット句会では、顔を合わせる句会に自句を晒すのと変わらぬ厳粛な気持でいたいものです。
(h)かずひろ:秀逸な句が多くありました。かるい機敏な子猫よりも沢山。
いちたろう:犬派のぼくにはちょっととっつきにくい題でした。今回は3句だけ選びました。きちんと5句選ばないといけないんですかね?無理して選ぶ必要はないと思うんですが…それから、現代俳句は自由な発想が多くて面白いんですが、一見珍しいかな〜と思っても、効果的ではない言葉の組み合わせが多くないですか?「修正液の桜花」といっても、修正液はあくまで「白」でしょうし、「恩人の掌白し紫木蓮」といっても、どうしてわざわざ白い木蓮でなくて紫木蓮なのでしょう?必然性はあるのでしょうか?「夕桜クラリネットに黒い猫」も、一見面白そうですが、それぞれの語を組み合わせて何が効果的なのでしょうか?カラーコーディネーター検定を受けようと思っているぼくにとって夕桜の色とクラリネットの金色と黒猫の黒色を一緒にされた構図はちょっとバランスがよくないように思われます。そのキッチュさがいいんだ、とおっしゃるかもしれませんがそれならその理屈を教えてほしいですね。
けいじ:HPのお引越しに関わられた皆様、ご苦労様でした。毎回ただ俳句しにだけ来ている私としましては、スポンサーのバナーを毎回クリックする事と色々な意味であっと言うような句を少しでも作ることで頑張っていきたいと思います。ま、疲れさせるような句も量産していますが・・・
けん太:今回はよくわからない句が多かった。ボクの読み方が悪いのか、作り手の自己満足がひどいのか。伝える義務をある程度は意識してほしいと思うのだが。
しんく:第16回の「猫ふいに海のかたちにもどりけり」を越える句が無かったのが残念です。
ももこ:難しい。<にんにくすりおろす国歌斉唱かな>と<猫色になって春の日ひるがえる>以外は自信がない。
薫:さて、猫。2年前に13年苦楽をともにした猫に先立たれ、慢性なペットロスの私である。猫、という文字を見るだけで涙腺緩みっぱなしなんだよー。で、いろいろな猫を楽しめました。ありがとうございます。飼いたいなー、猫。
秀人:肉体の部分の名詞がやたらに出てくる。<猫の舌ひろってあるく春の昼><汽水域に行方不明の猫の舌><ひな壇や舌よく曲がるあくび猫><百の舌飛び出してきし落花かな>−舌 この陳腐な発想はどうであろうか。猫といいったら猫舌という慣性の法則。惰性に流されている。<頬杖は黒猫いっぴき飼っている>−頬 <春ひかる猫の目ひかる金平糖>−目 <猫柳ガングロの腿くすぐりぬ>−腿 <朧夜や猫を抱く膝UFOめく>−膝 <手のひらに蝶湧きいずる昼の夢>−手のひら <恩人の掌白し紫木蓮>−掌 <皮一枚剥がして眠る朧月>−皮 <谷底へ猫の爪痕1000m>−爪 この肉体へのナルシシズム。ちょっとお粗末な流行である。もう少し思想の流行に批判的でありたいものだ。安易に肉体の部位を俳句に持ち込まないでもらいたい。日本人の右へならいは、俳句の世界にまで浸透しているということか。 
半信:古いなぁと思える句が多い。年輩の人たちが集まる句会よりも、明らかに古い。いや、すっかりパターン化してしまっている。熱い思いが感じられない。低体温児童のような。俳句の国って気持ちいいと言っているだけのような。俳句を創っている時間は癒しタイムなのか。このまま、青山温泉俳句工場になってしまうのだろうか?
帽子:今回は評書けませんでした。つっこみで書けたら書きます。
健介:私の印象では今回はかなり低調だったように思う。(例によって自分の句のことは棚に上げて)採った句に対してもいろいろ注文をつけてしまいました。妄言多謝。

10点句

頬杖は黒猫いっぴき飼っている   宮崎斗士

特選:明虫 特選:一之 秋 亜美 しんく けん太 半信 萩山 

けん太:少し理屈っぽいけれど。頬杖の時間をこんな風にとらえられる作者に興味がわきました。おもしろい。
しんく:「もう頬杖はつかない」主演桃井かおりが、黒猫を飼ってそうな、そんな、所さんのちょっと昔へ行ってみよう。みたいな感じがいい。
ももこ:「頬杖は」がよくわからない。「頬杖で」に勝手に直して読みました。夢路かサガンか。けだるさが好き。
亜美:類想はあるが、猫の立場からしたら、このくらいの予定調和のほうがほっとするだろう。
萩山:黒猫と頬杖の対峙その情景が見える
半信:まぁ、そんな感じはする。ライトヴァース俳句は素材勝負なのだが、それ以上の広がりを求めるのはむずかしい。「ゴドーを待ちながら」に始まった受け皿不在の不条理感は、二十世紀の記念碑的表現テーマだった。次世紀は、よく計算された(情報が整理されてムダのない)「明るい抒情」へ向かうような気がしている。
またたぶ:「いっぴき」の是非はさておき「頬杖」と「猫」は近すぎませんか。
満月:頬杖が猫を飼っているのか。・・・「頬杖氏」なんだろうか、「頬杖をするということ」が黒猫を飼うこととアナロジーなんだろうか。最後だったらつまらない。最初だったらイメージ力の限界を感じる。真ん中だったら当たり前すぎる。いずれにしても<は>がくせものだ。
明虫:頬杖をつく時そこに黒猫が必ず立ち現れる。人が日常ふっと癖を出してしまうのは、なにかを自家のものとして飼っていることと似ている、と作者は感じたのだろうか?考えてみれば、癖に留まらず、失敗とか、後悔にも「あっ、またやっちゃった」というパターン的繰り返しがある。
秋:これはうまいというか面白いというか、ニ物が良い。黒猫が良い。
つっこみ!
帽子:「頬杖」は換喩なのでしょうか。採ってる人の選評中、半信さん以外の選評を読むかぎり、換喩ということになりますね。採ってない人でも、ももこさんの選評はやはり換喩説。採ってる人のうち半信さんは、ライトヴァースと言っているあたり、換喩と取っていない可能性があります。採ってない人では、「頬杖」自体が主語か、それとも「頬杖」氏か、という満月さんの意見もそうですね。そこで頬杖黒猫アナロジー説となる。で、個人的には、これが換喩だとするととても抵抗あります。句意からすると換喩なのだが(つまりそれだけ意味が通りやすく、またたぶさんがおっしゃるとおり「近すぎる」)、語の用法などを考えると非常に無理がある。換喩ならば1.形が無理2.内容が陳腐、換喩でないならば近すぎるのです。中七の8音にも抵抗があり、また「いっぴき」のひらがな書きにも媚びを感じます。
鉄火:この句に対する、私のモヤモヤとした気持ちを千野さんに解説して頂いたような感じです。換喩かそうでないかについて、私は結局わからなかった。どちらの解釈をとっても、もう一方の解釈が目の前を横切って、うっとうしさだけが残ってしまうのです。気持ちとしては換喩ではない方がいいのですが、その場合でもやはり不満は残ります。とくに下五が動作を表す言葉として弱いと思う。主語+目的語+動詞という形なのだとしたら、もっと強い言葉が欲しかった。それなら「頬杖」と「黒猫」が近くても、また違う印象になっていたかもしれません。
なお、選評の中で明虫さんが「人が日常ふっと癖を出してしまうのは、なにかを自家のものとして飼っていることと似ている、と作者は感じたのだろうか?」と書いておられるのは、それ自体が魅力的な解釈だと思いました。

9点句

時計屋の正しい時間しゃぼん玉   またたぶ

特選:子壱 特選:薫 秋 古時計 一之 ぴえたくん いしず 

ぴえたくん:たくさんの時計がお店の中で時を刻んでいると、どれがほんとの時間かわからなくなる、時間なんて儚いはかない。
薫:なにげない句だけどひろびろとした空間を感じさせてくれる。時間としゃぼん玉が即きすぎという説もあるかとは思いましたが。うんと正統か、うんと壊れてるかどっちかが好き。
子壱:時計の正確さとシャボン玉の真球度がよく対応しているようです。また瞬間のはかなさもあいまって,なかなか良い句かと。中七の表現が良いかどうかよく判りません。
満月:時計屋には正しい時間が表示されているんだろうけど、昔よく訪れた時計屋は、どれもこれも時刻の表示がちがって楽しかった。そんな中で、「どれがほんと?」と店主に聞くのも野暮なんで、いろいろな違った時間を同時に楽しむのだ。それを踏まえての<正しい時間>だと、<しゃぼん玉>が効いてくる。
秋:これも面白いところを詠んでいる。時計店では結構時間がばらばらでどれが正しい時間かきょろきょろすることあるが、しゃぼん玉とのニ物配合が良い。
古時計:時計屋の針は正しく指しているのがあたりまえといえばあらりまえなのだけど「正しい時間」あえていうのがすきです。
一之:万太郎の《時計屋の時計春の夜どれがほんと》があるが…。
つっこみ!
帽子:これは採りませんでしたが、好みです。敢えて「正しい時間」と指定したあたりが好きでした。

パン生地の眠るさなかを猫の恋   白井健介

特選:秀人 特選:(h)かずひろ 斗士 鉄火 いしず あずさ 洋子 

(h)かずひろ:実り多き明日を願って、眠るものあり、叫ぶものあり。
秀人:パンは眠りながら育っている。猫は恋をしながら鳴いている。朝がくればどちらもうまそうに焼きあがることだろう。ほのぼのとしてユーモラスな句である。
鉄火:単なる情景描写とも言い切れない、この微弱な視線に惹かれる。
斗士:対比が至妙で広がりがある。
あずさ:パン生地と猫の恋。うまく響きあっている。
つっこみ!
帽子:「さなか」に抵抗がありました。あと、これはこの句自体の問題ではないのですが、じつはこの季語が苦手です。俳句俳句してて。ほかにどんな12音持ってきてもなんか適当に収めてしまうという、「秋の暮」に匹敵する季語であり、「季語負け」してしまうのではと思って、なかなか使えません。

猫車横転寺山修司の忌   朝比古

特選:健介 隆 明虫 満月 半信 秀人 子壱 あずさ 

ももこ:猫車はバランスをとるのが難しいのです。子供の頃は妹を乗せて走っていました。今じゃ三歩がやっと。修司の危うさ、60年代のひたむきさを今の時点で読んでいる。
子壱:この句は良いと思ったのですが、寺山修二の忌で随分字数を取っておりややずるい気もします。
秀人:1983.5.4。猫車は油断すると倒れてしまう。バランスをとり続けないと、すぐに倒れてしまう。寺山修司の一生はそんなあやふやな危険なものであった。あまりにも速く走りすぎて、気が付いたら舞台から飛び出し、奈落の底に落ちていた。光のような一生だった。<眼をつむりていても吾を統ぶ五月の鷹>五月は修司の月だったような気がする。
半信:「猫車横転」はよく言ったものだ。が、その先の世界も書いてほしかった。止めは「修司の忌」だけでいいと思う。
満月:くっそお。猫車と寺山修司の忌で私も書こうとしたのだができなかったのだ。なるほど<横転>か。そうもっていくか。
またたぶ:「猫車横転」はいい着想だと思うが、フルネーム盛り込むのは17音の無駄遣いのような気がする。
明虫:寺山修司のぶきっちょそうなのが、一輪の猫車のありように似ている。うまいっ、と思うが忌日の句はどこかハメコミの感がある。
健介:忌日の句としては、ほどよく“寺山修司的世界”を醸し出せているように感じられるし、イイんじゃないかなぁ…と思う程度にしか私は寺山修司についてあまり知らない、というのが正直なところです。でも今回の作品の中ではこの句が一番イイと感じたので特選。
あずさ:劇中のワンシーンを彷彿させる。(そういう意味ではちょっと当たり前の句なのかもしれないが。。。)
つっこみ!
帽子:達者な句だと思います。「猫車横転」にはたしかな技術を感じます。これなら中七が8音になっても問題ないですし。寺山が嫌いでなかったら採ったところです。

8点句

伯爵の猫伸び上がり夏に入る   またたぶ

特選:朝比古 特選:ぴえたくん あずさ 隆 洋子 夜来香 

ぴえたくん:気持ちのいい作品だと思います。
あずさ:魔法使いのような猫だ。
夜来香:猫そのものではなく、動きを言ったところが好感が持てた。「伯爵の」で品もでた。
満月:伯爵かあ。。。以前にも登場したなあ。。中七下五はなんてことない光景なんだけど、その主人公がなにしろ<伯爵の猫>なんであるのだ。でも<伯爵>一語にもたれすぎていて、しかもその伯爵なることばにはっきりした印象が持てない。
つっこみ!
帽子:「伯爵」に頼りすぎ、という評がありましたが、そのとおりだと思います。「伸び上がり」がいかにも緩いです。これでは代わりに「あくびして」でも「の洗顔」でもいいし、どれを入れても同様の緩さが発生します。そういう「緩さ」を俳句に求める人もいるのでしょう。意識して求めているのならかまいませんが、なんとなく「俳句とはそんな感じのもの」と世間で思われている気もして、故・飯島晴子の句などが好きな自分としてはやや心外ではあります。
作者:飯島晴子氏の訃報には私も胸を衝かれましたが、拙句をめぐっての千野さんの見解は若干悲観的すぎるのではないかと思いました。「伸び上がる」と「あくびして」と「の洗顔」では出来は変わると思います。一定の水準以下には一切格付けが無意味だといわれるなら、変わらないでしょうが。この形に収める寸前から「伯爵と言う一語にもたれている」ことは作者本人が痛切に感じていました。そんな句をなぜ出したか?出題されてから、苦吟した中で一番「小まし」に思えたからです。約束事を無視して、よりましな自由題句二句を出すより、とにかく多くの参加者と同じルールで参加することを選んだ結果にすぎません。作者が当句やその結果に満足どころか居心地の悪い思いをしていることをお知らせしておきます。
なお、拙句を選んでくださった方のためにも一言弁護させていただきます。私自身「あまり弁護できない」句を採ることがままあります。並選四句というお約束に従うためです。自信を持っては採れない句を掬い上げる時の基準はまさに各々の気分のようなものでしかないのではないでしょうか。
(帽子:そういう「緩さ」を俳句に求める人もいるのでしょう。意識して求めているのならかまいませんが、なんとなく「俳句とはそんな感じのもの」と世間で思われている気もして)
そのご危惧はわかるつもりです。少なくとも絶対的にこの句が評価されたというわけではないでしょう。「世間」をどの範囲で仰っているかわかりませんが、「こんな緩さ」を戒める空気もこの句会では決して少なくないと感じています。こんな滑稽な口を叩くことを許されるなら、私自身がその一人です。
最後に、曲りなりにも採ってくださった方に非礼をお詫びします。親馬鹿で拙句とはいえ、やはり愛着はあります。
ぴえたくん:作者さん、こんにちは。
(作者:「伸び上がる」と「あくびして」と「の洗顔」では出来は変わると思います。)
わたしもそのみっつでは全然違うと思います。「あくびして」や「の洗顔」だったら絶対選ばなかったっ!「伸び上がる」には変身を感じて、伯爵の飼い猫ではなく、伯爵=猫だと解釈していました。猫で過ごす日もあれば伯爵で過ごす日もある。全然、拙句じゃないもん。大好きな作品です。
あずさ:わたしもこの句を採っていますが、<伸び上がる>動作によって、夏に入るというふうに読みました。ふぅーっと異次元に吸い込まれるように、しかも自分の意志で、というふうに読めた。<伯爵>に寄り掛かっているとのことですが、この<伯爵>は効いていると思う。<伯爵>という言葉の醸し出す気品が、この動作を、自らの意志であると感じさせてくれたように思います。
帽子:どんどん作者のかたが発言なさって、ちょっと嬉しく思っています。まずは、ぼくの乱暴な句評に、丁寧にお答えいただいたことを、光栄に思います。
(作者:「伸び上がる」と「あくびして」と「の洗顔」では出来は変わると思います。)
細かいことを言えばそうなのでしょうが…打球の飛距離は変わっても、方向は変わらないのでは?
(作者:そんな句をなぜ出したか?出題されてから、苦吟した中で一番「小まし」に思えたからです。)
ぼくもよくあります。かつての「旅」や「指」など、どれも非常につらかった。
(作者:約束事を無視して、よりましな自由題句二句を出すより、とにかく多くの参加者と同じルールで参加することを選んだ結果にすぎません。)
感動です。ゲーム性を重視なさるかたがここにもひとり…。毎回、出句しても点盛りをしない×××野郎のひとりやふたりはいる、と、山口さんから聞いていたりして憤ったりしているものですから、こういうかたがいらっしゃるとわが意を得た気がします。おっしゃるとおりだと思っています。
ちなみに、「緩い」という語を「穏やか」という意味に使っているわけではない旨、(これはこの作者のかたはわかってらっしゃると思いますが)このスレッドをごらんのすべてのかたに老婆心ながら念を押しておきます。
さて、必要以上に「悲観的」な意見を千野が言ってしまったのはなぜでしょうか? それは、この句にかんしては、イヤミのなさと、語選択のある種の慎重さを感じたから、自分の非力を棚に上げてつい言いたいことを言ってしまったのです。もちろん、この句が拙句より高点だったため嫉妬も混じってますが。自分が採らなかった句が高点になっているとき、ついその句にたいして厳しくなってしまうことってありませんか? ぼくはしょっちゅうですし、この句会でも過去の最高点句にたいするつっこみなどを見ていると、この感情はぼくひとりのものではない気がするのですが…
作者:大変光栄ですが、ちょっと買いかぶられてしまったようです。千野さんが主催された森高記念句会の後記で「ゲーム性と約束事」観をお書きだったように思い、確認してきました。残念ながら、千野さんほど私はゲーム性を楽しめてもいないのです。特1並4に調整する際、割り切れない気分によく陥ります。
とはいえ、その約束に従うように努めています。基本的に参加者がそうするという前提なら、「点数による序列」と「句の質」との間には「相関関係がある」にすぎなくなるはずです。(「高得点句にいい句が多い」という認識は持っておりますので、該当される方々、ご寛恕ください)
ただ、点数序列は露骨ですし、当事者としてはつい熱くなってしまうのも人情だと思います。誠実にやりとりすればプラスになると信じています。
この句の限界は承知しつつ、山口さんやぴえたさんからいただいたような鑑賞が生まれないものかと賭けてみる(甘えにも似た)期待もありました。(まとめレスで失礼いたします。)ありがとうございました。
(帽子:細かいことを言えばそうなのでしょうが…打球の飛距離は変わっても、方向は変わらないのでは?)
そのように書いてくだされば、否定はしません。あくまでも、このツリーの元発言でのコメントに対して、それほど、無自覚ではないつもりだと言いたかっただけです。

7点句

ふたりのことは、噴水の高さで計れ。   千野帽子

特選:夜来香 青 またたぶ ぴえたくん しんく いちたろう 逆選:けいじ 逆選:(h)かずひろ 

(h)かずひろ:恋仲を噴水の高さで表現するのは、面白い試みだと思います。
いちたろう:いいですね〜。作者は高柳重信が好きなんでしょうか。噴水は性的なものの比喩でしょ?高まってきそうですね〜
けいじ:そんな単純なものでもないでしょう、多分。点も丸もここではいらないと思いますし。
しんく:俳句とは言えないだろうが、同感することが多いので、一票を。
ぴえたくん:計れないってわかっていても計りたいのが恋心かな。。
夜来香:うららかな公園で煮詰まったカップルがデートしているという光景。どうでもいいけど、うっとおしい。勝手にしてくれ。・・・ということを言ってくれてすっきりした。しかし、「、」と「。」もうっとおしい。
またたぶ:去年だか「噴水」と「ふたり」で私も一句詠んだが、これにしてやられたと思い、一票。しかしこの「、」に効果はあるのだろうか。疑問です。
満月:句読点に必然性がない。一気に書き下した方が勢いが出ていいように思うが。

6点句

ひな壇や舌よく曲がるあくび猫   子壱

特選:いしず 斗士 朝比古 いちたろう 凌 

いちたろう:きっと舌が長い。曲がるくらい長い。その長さが伸びやか。のんびりした空間の広がりを、舌で表現している。
斗士:景のやわらかさがいい。「舌よく曲がる」絶妙。
凌:「や」がよく解らないけど・・・
またたぶ:もしかして、「ひな壇」は曲がり具合との「呼応」?
健介:目の着けどころは大いに共感した。「あくび猫」というのは少々強引だと思うし「舌よく曲がる」という言い回しにももっと工夫できると思う。惜しい句です。
つっこみ!
帽子:中七にしっかりしたものを感じます。それだけに、下五の無理のある(そして芸のない)怠惰な語選択を惜しまざるを得ません。ちなみに「無理があって芸もある語」とは、たとえば工場長の「福耳姉妹」などのことです。

黒焦げの木椅子が届く晩夏なり   村山半信

満月 帽子 朝比古 青 しんく けん太 

けん太:黒焦げと晩夏の取り合わせが、ぴったり。それだけによくある世界とも思ってしまう。もう一息何かがほしい。
しんく:この時期に晩夏の句とは、作者は何か予言しているのか?
帽子:コンセプチュアル。
満月:おお、こわい。それはもしかして人が座ったまま焦げてしまった椅子?焦げた椅子に座れと暗に言われているのは、「お前も焦げろ」「死ね」という嫌がらせの一種のようだ。命の危険を感じてしまう。それにしても<なり>でその緊張感をてれ〜〜っとくずしてしまったのはなぜだろう。

フリージア寡黙な家をかけぬける   古時計

特選:洋子 特選:斗士 鉄火 夜来香 

鉄火:「フリージア」では押し出しが弱いと思いつつ、家の中を光線のようなものが通過していく、そのイメージを買います。
斗士:「かけぬける」の強引さが好ましかった。
夜来香:色や匂いを感じた。平凡だが嫌みはない。
満月:<フリージア>という語感は、なるほど言われてみれば<かけぬける>ようなスピード感がある。しかも<寡黙な家>と妙に合う。惜しむらくはこの句も一気に<かけぬけ>てしまった。句末が問題か?
つっこみ!
帽子:「花+家」俳句。向上句会でも本句会でもよく見ますね。あまり焦点が合わないというか、好みではありません。下五はちょっと緩いと思います。語感があまりに抵抗なく脳に入ってくるので、かえってスカスカしている感じ。もう少し「わざとヘタッピに作ってみる」ほうがいいのではないでしょうか。

国境は切手にまいで封鎖せよ   凌

特選:帽子 子壱 古時計 またたぶ ぴえたくん 

帽子:はい、わかりました。
ぴえたくん:漢字で二枚にしてほしい(^.^) でも、面白い!
子壱:切手二枚なんてもったいない。国境なんてもっと簡単に封鎖されるみたいですね。でも良い句ですね。にまいをひらがなにしたのがやや作為的。
またたぶ:「にまい」をひらがなにしたい気持ちはわかりますが、ちと読みにくい。「国境」への風刺が好きです。
古時計:「切手にまい」なんてそれで「封鎖せよ」わかるようでわからないけど、ひかれます。
つっこみ!
帽子:ぴえたさん、子壱さん、またたぶさんのご指摘どおり、ひらがなの「にまい」はダメです。この句を特選にしたものの、「にまい」だけ取り出して見ると逆選つけたいくらい嫌いですね。そこのところがまんしてでも特選つけたので、それだけ句の着想が好きだということです。

猫の舌ひろってあるく春の昼   村山半信

特選:あずさ 特選:隆 特選:けん太 逆選:秀人 

けん太:春の昼のけだるい時間、猫の舌を拾って歩く。とても不思議なでも、その不思議はひょっとしたら現実にあるような、そんなことを思わせる世界が気に入ってしまいました。
満月:そしてその舌が何かしゃべり出す。。。春の昼にはなんでも不可解なことがおこりそうだ。
あずさ:この独特のやばさがいい。
秀人:こういうのが洒落た句であると思っている一群の人たちがいるが、こういう句をいい句だと思う人たちを肯定することは、もう時代遅れではないかと考えている。これはただ下品な句であると、勇気をもって言っておこう。
つっこみ!
帽子:この句にたいする秀人さんの逆選の弁、および同氏の「全体的な感想」欄での、安易な身体部位俳句の流行についてのご指摘は、ありがたく受け取るべきものだと思います。自戒といたします。ぼく自身、一昨年はそれこそ安易な身体部位俳句を何句が当句会に出しています。重要なのは、秀人さんがおそらくは生理的な違和感ないし嫌悪感を出発点に論じていらっしゃるだろうということです。これは、たとえば自分に置き換えてみますと、一時期「親族名称俳句」「人称代名詞俳句」を毛嫌いしていた時期があり(そのわりには自分でも死んだ伯母がどうのこうのという句を作ったりしていましたが)、またいまでも基本的に「酒俳句」の甘ったるい思考停止状態を嫌っている身なので、秀人さんの指摘には、「はっ」とさせられました。 身体部位は「身近であること」「身体性」によって俗情と結託することもあります。またこの句のように実景ではない句のばあい、着想を手軽に定着させるための食品添加物として、身体部位が濫用されることもあるでしょう。この句に関して気になったのは中七です。緩い。「ほらほら、不思議でしょ?」と言われている感じです。不思議ちゃん俳句。といいつつぼくも身体部位俳句をやっぱりたまに作ってはおりますが…俳句・俳諧という主知主義的出自のジャンルに、「情」や「身体」や「どろどろ」で抵抗するためだけに使われたのでは、身体部位も浮ばれますまい。この句の作者の非は、すなわちわたくしの非でもあります(言っとくけど千野の句じゃないよ)。自戒自戒。「舌」の句で好きな句を書いておきます。あまりに有名で気が引けますが。
<晩春の肉は舌よりはじまるか      三橋敏雄『眞~』>
あずさ:唐突ですが、この句を読んで「猫舌」を思い出した人はいますか?秀人さんは猫といったら猫舌という慣性の法則と書いておられますが、少なくともわたしはいわゆる「猫舌」は思い浮かべなかった。猫を飼っていないので、猫の舌について、それほど深く観察したことはないのですが、牛タンでもなければ、犬の舌でもなく、まして蛇の舌でもない猫の舌。牛タンを拾えば迷わず塩焼きですし、犬の舌だと獣臭い。蛇の舌だともっと魔界度が高くなる。ところで、馬の舌って食えるんだろうか?(馬タン?)
帽子:ぼくも猫舌は思い出しませんでした。くるっと巻いた薄焼きのラングドシャという菓子を思い出しました。langue de chat = cat's tongue
あずさ:げ、ラングドゥシャって、猫タンだったんですか。知らなかったぜ(>ヨックモック。)

5点句

谷底へ猫の爪痕1000m   いちたろう

特選:しんく 特選:けいじ 明虫 

けいじ:1000mの谷はなかなか想像し難い。それだけ引き摺る執念深さが好き。もう未練たらたら必死でしがみついていた、それも跡というのがが面白い。でも、絵として滑稽な物ばかり想像してしまうのは何故なんでしょう。
しんく:よい!面白い!
明虫:谷岡ヤスジの漫画が目に浮かんだ。猫の慌てふためいた顔。。。
健介:言わんとすることはとてもよく分かる。場面が目に浮かぶ。「1000m」という具体的な数字がちょっと大袈裟すぎてシラケる感じがするのがマイナスだったか。でも面白くて好きです。

縊死の木か猫かしばらくわからない   凌

特選:青 特選:亜美 薫 逆選:帽子 

亜美:「奇妙な果実」感。「しばらくわからない」の時間の膨らみに、「奇妙な(strange)」の震撼が増幅されてゆく。思えば、西欧の私刑とも言うべき魔女裁判でも猫は重要な役割を果たした訳だし。とはいえ、そのようなメルクマール抜きにも、縊死の人影は、まるで濡れそぼった猫のように、さみしくみじめだ。この親縁性(類似性、ではない)ゆえに胸をうつ。久し振りによい句に出会いました。
青:猫も自殺するかもしれない。
薫:ちのさん句「くらげ伯母」の本歌どりということでいただきました。(違ったらごめんね作者さん)同じ「死」を扱って、こちらは薄闇、黄昏に沈むようなイメージ。しばらく、がちと弱いかも。
帽子:パクリではないと思いたいけど(第一回超特選大会参照)。
またたぶ:チノボーさんの「水母」句(第4回参照)を知らなければ、「この構文ナイス」と思えただろう。ともあれ「しばらく」はない方がいいのでは?
満月:<水母だか死んだ叔母だかわからない 千野帽子>を思い出した。<縊死の木>と<猫>では遠すぎて無理がある。
つっこみ!
凌:この句の作者です。<水母だか死んだ叔母だかわからない 千野帽子>
ご指摘の通り今第一回超特選大会を確認致しました。私がここに参加する以前の作品ですが、おなじ場所に発表されている以上知らなかったでは通用しないでしょうし、後もどこかでこの句に触れたような気はします。しかし「本歌どり」という意識を働かせたわけではありません(ここで言われる本歌どりというのは少し意味が違うのではないか)。「縊死の木」と「猫」、この遠い言葉がどうスパークするか、あるいはしないか、その自問として「しばらくわからない」を得ました。勿論、句の内意としては「木か猫かしばらくわからない」ですが、意識的パクリではないつもりです。しかしどこかで「水母・・」の句に触れているわけですから、潜在的な意識、あるいは無意識の働きについては私自身も判断しかねております。(それに気がついたら発表していません)。しかしどう弁護してもパクリの誹りは免れないでしょうし、前句を越えているとは思えません。特選:青 特選:亜美 薫 逆選:帽子、その他の皆さんには申し訳ありませんがこの句を撤回させていただきます。
帽子:いやいや、ものすごく「よくあること」だと思いますし、出してしまった句は撤回できませんよ。(そもそも撤回ってなんだ?)それに、千野のよりこっちのほうがいいと思う人だっているはずです。
(凌:私がここに参加する以前の作品ですが、おなじ場所に発表されている以上>知らなかったでは通用しないでしょうし)
え。いいんじゃないでしょうか。そんなこと言ってたら創刊100年を越える《ホトトギス》はどうなるのでしょう。こんなの「いやー、知らなかったなー」で済むことだと思います。気にしないでいきましょうよ。気づかないで似てしまうなんて、17音しかないのだから、ぼくだって何度もあります。
凌:撤回ってへんですね。
(帽子:それに、千野のよりこっちのほうがいいと思う人だっているはずです。)
これは私自身の判定。「水母・・」の句を確認したとき、格闘技のリングにいるような幻覚におそわれて、判定負けかK0か、とにかく「ああやられた・・」という感じ。負け惜しみではなく倒される快感のようなものを味わいました。ひょっとして俳句(川柳)は格闘技かも知れません。いや格闘技だ。
亜美:作者、撤回希望とのことですが。特撰を付けたものとして、疑問の対応です。私は、千野氏の句は知りませんでした。しかし、現在、千野氏の句を念頭に置いたとしても特撰の評価は変わらないと思います。確かに「しばらく分からない」という措辞は、千野氏と類似していますが、「A かBか分からない」という構文自体にはそもそもさほど目新しさは感じません。きちんと類句をあげつつ証明すべきなのでしょうが(不勉強で申し訳ありません)。田中個人にとって、発想の範疇内にある、という理解(何の意味も価値もないけど)にとっていただいた方がよろしいかもしれません。問題は、同一の構文の上に同一のイメージが重なったこと、つまり両者がともに、能動的であれ受動的であれ、ある種の暴力的な絶命を遂げた後の屍体の感触のようなものを表出していること、と私は理解しました。しかし、このようなモチーフというのは文学、とりわけ詩文においては多用されているモチーフではないでしょうか。乱暴にいえば、多くの作品がこうしたモチーフのヴァリアンテ〔変奏〕のようなものではないか、寧ろ共通の土壌に生じる微妙な差異こそ、私個人は楽しみたいという立場です。さて、その差異という点からいうと、千野氏の「水母」句は、「叔母」の生々しさにどきりとさせられながらも、水母と水死体の取り合わせは、「土左衛門俳句」(そんなものがあるとすれば)かなーという感じがして、私は戴かないと思います。ただし、この「付き」こそが一句を強烈なものに仕立てていることはぜひ指摘したい。一方、凌氏の句は、選評でどなたかが、猫と縊死の木が離れすぎていると指摘していましたが、まさにこの離れ加減に私は感銘しました。シュールレアリスム的二物配合ではないけれど。ただ、類想という点では、ストレンジフルーツだし、パウル・ツェラーンという詩人などはこの「縊死の木」のモチーフを結構執拗に用いたりしてます。誤解を恐れずに言えば、すぐれた作品というのは潜在的に、すぐれた類想(うつくしく言えば「共通理解」)を絶妙の加減で「まぶして」いるのではないでしょうか。そうでないと、そもそも理解の範疇、共感の視野には入ってこないような気もします。 とはいえ、現実問題として、17文字の限界がある中で、「類想」の指摘は怖い。朝日俳壇などでも年間句集になると、結構「間引き」されています。ちなみに金子師は「選句していても、まず八割方は類句だ」と仰有ってた。記憶に残留しているほど先人作は勉強してないのですが、それでも投句する時にはひやっとします。幸い当たっていませんが、名句の発想には到底及ばぬ、ということなのかもしれない、それもなんかくやしい。ともあれ、凌氏が撤回をいうのはナンセンスだと思います。それは他者(私もその一人だ)が判断する問題だと思います。
凌:「撤回」という曖昧な表現でご迷惑をおかけしました。ただ私が早々と敗北の意をあらわした理由が二つあります。一つは、その後に確認した「水母・・」の句との比較において、単純に「負けた」と思ったこと(叔母が水死体なら私の方が勝っている)。もう一つは私の句に触れて下さった殆どの方がやはり「水母・・」の句との比較で読まれていたこと。特に「本歌どり」と言って下さったご意見はこたえました。確かに「本歌どり」は一つの方法として存在しますし、和歌の時代に盛んであったことも聞いています。しかし私の句が「本歌どり」なのかどうか。本歌を念頭に置きながら本歌を越える力を認めて下さっての「本歌どり」という評価なのかどうか。ひがみ癖のある私は「前の句を知っていて作ったんでしょう。そうでなかったらごめんなさい」と受け取ってしまったのも撤回の大きな理由です。しかし、もともと大いなる誤解と曲解のもとに成り立っているのがこの場ですから(だからスリリングで面白い)、それを怖れずに挑発され挑発したいと思っております。
特選ならびにその後の作品評価に感謝いたします。
薫:こんにちは、凌さん。
(凌:特に「本歌どり」と> 言って下さったご意見はこたえました。)
「そうでなかったらごめんなさい」は、作者の意図を超えて自分勝手に「本歌どり」と解釈することへの謝罪の意を表明しようとしたものでした。他意はありません。凌さんがおっしゃっているように、
「しかし、もともと大いなる誤解と曲解のもとに成り立っているのがこの場ですから(だからスリリングで面白い)」である以上、余計な気の廻しすぎであったと反省しています。ごめんなさい。
帽子:拙句には「水死」とは書いていませんが。
(亜美:乱暴にいえば、多くの作品がこうしたモチーフのヴァリアンテ〔変奏〕のようなものではないか、寧ろ共通の土壌に生じる微妙な差異こそ、私個人は楽しみたいという立場です。)
基本的に俳句とはそうしたものだと思います。
(亜美:問題は、同一の構文の上に同一のイメージが重なったこと、つまり両者がともに、能動的であれ受動的であれ、ある種の暴力的な絶命を遂げた後の屍体の感触のようなものを表出していること、と私は理解しました。)
「暴力的な」を「死んだ伯母」に見て取ったのは純粋に解釈上の問題では?たしかにそれをどう解釈なさるかは読み手の自由です。ただ、「水母」の「水」と「死んだ伯母」の「死」を短絡させて「水死」という熟語を出幻させておいて、それを「付いてる」と批判するのでは、これはマッチポンプではないかと思います。「付いてる」のはショートサーキットしているその解釈のほうでは?拙句が凌さんの作と比べていいか悪いかはどうでもいいのですが(どうでもいいことはないか。だれでもわが句はかわいい)、解釈の自食状態というか、句ではなく自分の尾を咥えているのではないかと思った次第です。拙句が「つい水死体を想起させてしまうあたりが弱い」と書かれるなら納得します。なお、作り手としてではなく読み手としての意見ですが、個人的には、俳句における「暴力」的なもの(正確には、「これって暴力的でしょ?」という記号)の安売りにはやや退屈しています。幸いにして凌さんの句にはそのような媚びは感じませんでしたが。
陳腐な意見かもしれませんが、アウシュヴィツ以後の詩にかんするアドルノの発言や、ザヴィス・カランドラにたいるエリュアールの政治的態度に憤ってやがては詩の筆を折った若きクンデラのことを思うと、最後まで苦しんだのかもしれないユダヤ詩人の名を挙げていただいたことは、詩というものを知らぬぼくにとっては勉強になりました(勉強のせいで詩にたいする不信をますます募らせることになるかもしれませんが)。どういうつもりでぼくが逆選をつけたかというと、それはたんに句会がゲームだから、です。なんとなくゲームとしては、ここで逆選つけるのが面白いのではないかと思ったからですね。
亜美:ご返答ありがとうございます。どうやら私の解釈に問題があるようですが。つい水死体を想起させてしまうあたりが「弱い」とは思いません。むしろ逆です。(それはもうすこし後に書きます)。ただ、私の現在の読解力では、水死体しか想起できなかった、(同じことですが)想起しませんでした。熟語とかにはきづきませんでした。なぜ、そうなのかプロセスを言語化するのは、けっこうしんどいのですが、まず、「ーーだかーーだか」という措辞にこだわりました。「ーーかーーか」という構文と比較すると、この「だか」の「だ」は断定の助動詞ということもあり、ーーの内容をより強く規定しているような印象を、私は受けてしまったのだと思います。また、韻律的にも何となく語気に力があることがそのような印象を補強してしまうのだと思います。このような措辞の場合、ーーの内容は、観念的なもの、イメージ的なものではなく、より実体をともなったもの、適切な語かわかりませんが、即物(実体に、即した、という点で)的なものではないか、と私は思ってしまいます。先に私は、水死体以外は想起できない、とありましたが、それはその連想を選択し、ほかは考えないということです。一応、一読して私が考えた解釈は
1,水死体
2,叔母さんの顔や体付きが水母の形状と具体的ににている。というもののほか、
3,死んだ叔母のたたずまいのようなもの、回想の中の叔母のイメージ、あるいは叔母を回想しているその心地そのものが、水母のたとえば浮遊感のようなものと重なる
4,(1と3の総合)
というものがあります。しかし、「ーーだか」という措辞の一種の強い語調の中で、3のような心象的な風景を想起させるのは無理があるような気が、私にはしました。あいまいさという点ではたしか、方言だか、口語だかに「ーーだか、ーーだか、、、、」というような繰り言めいた呟きの調子があることはわかるのですが、次に「わからない」と断じてしまっているところからは、そうとも私には読みとれません。また、「死んだ」という措辞もいささか生で、ぶっきらぼうな表現ですから(悪い、というのでは決してありません)、3,4の連想にはつながりにくい。2は、あくまで解釈の可能性として示したまでで、この句の説明ではぴんとこない。ということで1が残った訳です。なお、もし3(4)だとしたら、措辞はともかくとして、女性のたたずまいや回想などといったイメージと水母のとりあわせは、悪くはないものの、常套かな、という気もします。魅力は感じません。寧ろ1の方が、ぐっときます。よくぞ書いた、とも思います。きっと、作者の千野様は、私のこのような解釈を超えたところに一句を措定されていらっしゃるのでしょう。なにがどのように違うのか、後学のためにもできれば、千野様にその内容を示していただきたかったのですが、しかし、あくまで書かれたもの(一句)の中から一読み手としての私が解釈するのはここまでです。私自身の感受性、能力の足りなさはもちろん十分承知していますが。
(帽子:俳句における「暴力」的なもの(正確には、「これって暴力的でしょ?」という記号)の安売りにはやや退屈しています。)
暴力的、というのは辞書にでているような「あらあらしく乱暴」というような意味です。ちなみに「無法な力」とも辞書にはでていましたが、こちらまでは意識していませんでした。「暴力」という語が、記号論的解釈等を中心に一種の「記号」のように用いられているということは、情報としては何となく知っています。しかし、そういう言説を読んでもよく分からないので、知識がありません。ベンヤミンという人のものならば少しはわかりますが、ここでは念頭に置いてませんし、おいていたらそうことわり書きをします。一応、何らかの「記号」でしたら、書き方として、誰それの何々の定義に基づく、と一度はことわると思いますし、「」などを用いると思います。ただ一句の場合と同じように、読み手である千野様がそのように解釈されたということは、それはそれで自由だと思いますし、文責は私(田中)にあります。批判は甘んじて受け止めます。
(帽子:陳腐な意見かもしれませんが、アウシュヴィツ以後の詩にかんするアドルノの発言や、ザヴィス・カランドラにたいるエリュアールの政治的態度に憤ってやがては詩の筆を折った若きクンデラのことを思うと、最後まで苦しんだのかもしれないユダヤ詩人の名を挙げていただいたことは、詩というものを知らぬぼくにとっては勉強になりました)
どのような文脈で陳腐といわれているのかぎもんですが、特に「思うと」まではとても真摯なものいいのように思いますが。詩への不信と、勉強がどうかかわっているのか、私には何かよく分かりませんが、とりあえず私の戯れ言とは別に、Celanの詩はよい詩だと思います。クンデラもとてもいいですね。
帽子:(亜美:水死体しか想起できなかった、(同じことですが)想起しませんでした。熟語とかにはきづきませんでした。)
熟語と言ったのはまあレトリックというか…でも「水」の字と「死」のじがあったから「土左衛門俳句」疑惑が生じてしまったのだと思います。そういう意味では、そうとられてもしかたがない俳句なのだな、と、いまとなっては思っています。
(亜美:ーーだかーーだか」という措辞にこだわりました。)
解釈過程を言語化するという困難なことをさせてしまってすみません。でも非常にありがたいです。ご指摘のとおりこの句はたしかに凌さんの句に比べると口語っぽさが強いと思います。
じつは、向上句会や超特選大会では、3.のような解釈もけっこうあったのです。ちなみに3.のほうが土左衛門解釈よりも作者の気分としては近いのですが、もちろん作者が正しいわけではありません。というか、なんとなく言葉が先にできてしまって(いつもそうなのですが)、できたあとで自分で意味を考えたりしているので、じっさいのところ、田中さんの解釈が×だと言うつもりはありませんでした。時間不足と、旧作がとりあげられてびっくりしたのとで、慌て気味に書いてしまいました。丁寧に対応していただき、感謝してます。この句にたいする自分の解釈は。(田中さんの解釈に噛みついた以上、自句自解というものはもうすこし権威をもってやるべきなのでしょうが、かなり自信ないのです)、作った当初は3.の解釈に近く、ただし「ぜんぜん親しくない、顔も思い出せない伯母」で、まったく追悼的な気分のない、たまたま自分と血縁関係にある年長の女性、といった感じのぼんやり感だったのです。
ところが最近の自分の解釈では(自作なのに解釈がふらついているのですが)、そういうぼんやり感みたいなものを蹴っ飛ばしている感じ、になりました。田中さんの「韻律的にも何となく語気に力がある〔…〕「死んだ」という措辞もいささか生で、ぶっきらぼうな表現ですから」というご指摘の部分が、作者本人をして解釈を変えさせたのです。ニュアンスとしては「そんな水母だか死んだ伯母だかわからねえものは…」という「馬の骨」的断言です。その前年(俳句をはじめた年)に作った<なに云つてやがんだ酢海鼠の癖に>という拙句に近いかもしれません。でも、これはなんだかんだで作者がわが句可愛いやで解釈したものですから、自句を読むときぼくの目は曇っているようです。正解でもなんでもありません。
アドルノ、クンデラ、ツェランの言及について。
これはいちどにいろんなことを言おうとしてぐちゃぐちゃのまま送信してしまったものです。もうしわけありません。複数の問題がここにからみあっているのです。ばらして列挙しても論理にならないし、もう少し整理して考えるべき問題でした。要するに詩が嫌いだと言うことです。ぼくは学生時代ドイツ語を落としたことがあるくらいで、ツェランの詩はユダヤ系の翻訳を得意とする飯吉光夫訳で、たまたまあるちょっと長い一篇を読んだだけなのですが、それはぼくが嫌っていた「詩」とは似ても似つかないものでした。「詩」とはランボーや中原中也みたいなものだとばかり思っていたので、ちょっとびっくりしました。ぼくはそれを一篇の短篇として読みました。ランボーや中原中也が詩なら、ツェラン(あるいはミショー、ポンジュ)は詩ではないのではないか、とまで思います。いまだにランボー的な「詩」とツェラン的な「詩」とが、おなじジャンルに属していることが納得いかないのでした。
凌:割り込んですいません。おふたりの議論は大いに興味があります。ただ読者にとって、あるいは作者にとっても「解釈」というものがそれほど重要なものなのかどうか。私はいつもここで壁に突き当たってしまいます。句を創る時も、たとえば感情に沿ってとか、意味をたどって、というよりも「なんとなく言葉が先にできてしまう」とか「あれこんなんできてしまった」ということが多いのです。それではいけないと自分を納得させるために、後で意味らしきものをデッチ上げてはおりますが、皆さんはどうなんでしょう。読み手の側に立った田中さん、書き手のチノさんのご意見参考になりますがもう少し詳しく・・と私は欲張りです。

4点句

春風に吹かれて猫の勇み足   さにー

特選:萩山 凌 洋子 

萩山:春風はついついテリトリーを超えさせる
凌:「猫の勇み足」いいなあ。

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